ふらふら散歩道(酒)

ふらふら近所を散歩。昼呑みあり。

2年前の今日(11/7の日記)

晴れ。

今日も仕事を無事に終えてきました。

今日は午前中は会社で事務処理をして、夕方は銀座へ営業に行き、そのまま直帰しました。

 

メールがはてなブログから来ていまして、今日はどうやらブログを開設して2年が経った日だとのお知らせでした。そうか、あれからもう2年か。早い様な、色々あった様な気がします。

 

2年前の僕は病気で会社を休んでいて、独りぼっちで… いや、今でもあまり変わり映えはしませんが、とにかく病気で身体も自由に動かせず、気も病んでいて、とにかく不自由な生活をしていました。お金も毎月振り込まれる傷病手当をやり繰りしながら、色々な事をやりくりしながら何とか毎日を過ごしていました。

 

ただ、その休職していた1年半ほどは、僕の人生に於いては実に大きなターニングポイントで、今の、何でもとりあえず熟せる、一見器用で、人生を楽しんでいる様に見える自分がいるのは、その期間に培った色々な事の集大成と言えます。

 

その期間で僕は… 大きく言えば「自分なりの幸せ」を体感出来たのだと思います。

自分なりの幸せとは何か?自分が自分である事とは何か?自分の器とは?と、第三者的に自分を分析した期間でした。そんな時間、今の現代人にはありませんよね。

 

人生って花に例える人もいますが、僕からしたら人生は芽から草、花から種になるまでが一生で、それぞれの期間にその人らしさがあるのだと思います。

周りにたくさんの友人がいる人、お金持ちな人、天性の職に就けてる人、大人数の家族に囲まれている人、僕には全部ありません。自分がその様に選んだのです。

でも後悔はなくなりました。

なぜかって?自分らしさを知ってるからです。自分を喜ばせる事が分かるからです。

人から見たら色々と不幸な事もあるかもしれない。

でも僕にはそれすら、「ささやかな幸せ」なのです。

2年前。歩けなかった自分。今は履くものさえあれば表に行けます。もちろん服も着て出ますけど。以前は出来なかった事、あれほど難しかった事が出来るのです。

なんなら銀座に営業に向かう事すら出来るのです。

 

2年前の僕はきっと、このブログを絶望の最中(ちょっと言い過ぎかな。)で開設したのだと思います。これは遺書ですと書いてます。特に明日死のうと思っていた訳ではありません。今際の際に、自分が読み返す、ないしは残った家族が僕がささやかで幸せな一生を過ごした事を分かってもらえるかなと書き始めたものなのかも知れません。または僕自身がベッドの上で自分の人生の後半期を読み返す前向きな個人的な伝記だったのかも知れません。

これは僕にも分かりません。誰も読まないブログを書くとは、そう言った自己満足的な、承認欲求とはかけ離れたものであると思います。

 

少し長くなりました。

長い文章というのは人を退屈にする傾向があります。

それが個人的な誰も見ないブログならなおさらです。

今日は少し、このブログを読み返そうかと思います。

愛しい2年前の絶望している自分を励ましながら、何でもない日常に振り回されたり、一喜一憂している自分を愛おしいと感じながら、そして自分を育ててくれた両親に感謝しつつ、一緒に育った兄弟達や親戚の皆、僕を支えたり、罵ったり、かまってくれた友人知人のミンナに感謝しつつ、明日もささやかな幸せを感じて過ごせればと思います。

 

そうそう、最近、このブログの唯一の読者である大事な友人と連絡が取れません。

おたまさん、アナタですよ。

あなたは僕の唯一のブログ購読者であり、人生で最も怠惰でダメな時間を共有した戦友です。僕はとても心配してます、このブログを見たら連絡下さいね。